hyoutau’s blog

エニアグラム/ドン・リチャード・リソ 助言/中嶋真澄 対人関係

エニアグラムは性格の話ではなくてスピリチュアルな教え

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』

52頁 第三章本質と性格

エニアグラムの中核にある真理は、「私たちは性格をはるかに超えた存在である」ということ”

“私たち一人ひとりは、性格という限界を超え、「本質エッセンス」と呼ばれる、ほとんど認知されていない、大きな広がりの「存在ビイングあるいはプレゼンス(「今、ここ」に在ること)」として生きている”

 

54頁 聖なる心理学

エニアグラムは無味乾燥な心理学でも、曖昧な神秘主義でもなく、成長(変容)トランスフォーメーションのための道具です”

“私たちがどのように本性(true nature)聖なる本質(Divine Essence)を忘れ、自分自身を見捨ててしまうか、その心理的カニズムを基本タイプが明らかにしてくれる”

“私たちは限定された対処方法(strategies)や自己イメージ、行動などを無意識に身につけ ”

 

56頁

エニアグラムの教えのひとつは、「自分は性格そのものではない」と気づくこと”

“私たちは性格というものを「もち」、性格を通じて自らを表現する「スピリチュアルな存在」”

“性格との同一化(一体化)をやめ、それを防衛することをやめれば、奇跡が起きます。本質が自然に表れ、私たちを変容させる”

 

『エニアグラム【実践編】人生を変える9つのタイプ活用法』

12頁 光の存在

“私が見たものは、そこにいるみなが「光の存在」であるというもの”

“自分自身を正直に、なおかつ善し悪しを裁くことなく観察し、性格のメカニズムの働きを見るなら、私たちは目覚めることができ、美と喜びが奇跡的に開花する人生となるでしょう”

 

ja.wikipedia.org

「科学の検証に耐えられてない」「せいぜい疑似科学

(ところで心理学や精神医学は科学であろうか。なぜあれほど複数の説が併立しているのであろうか。それからDSMが改訂されるごとに病気や薬が増えているような)

 

という言は多分的外れであろう。エニアグラムはそもそも性格の科学などではなくてスピリチュアルなトランスフォーメーションのための教えなのである。エニアグラムと云えば性格タイプの話であろうという一般的な理解とは異なり実はエニアグラムに於て性格は「限定された対処方法(strategies)」、人々の本質ではなく「スピリチュアルな存在・光の存在」としての人々が「同一化(一体化)」を止めると良いもの、と云う二義的な位置付けをされている事柄に過ぎないのである。

 

ja.wikipedia.org

にも出てくる斯界のビッグネームであるラス・ハドソンRuss Hudsonの言を引くと

 

web.archive.org

“「エニアグラムは強力な手段だが、それ自体が目的ではない」ということですね。いまドンが話したように、わたし自身の埋解では、エニアグラムはわれわれの目覚めを助けてくれる手段なのです。つまり、われわれがよりいっそう「いまここ」に在り、体験していることや本来の白分を、より深い次元において認識する手助けをしてくれる手段ということです。もちろん、このような志向を持たずにエニアグラムを学ぶ人は大勢いますし、また実際に教えている人も少なくありません。しかし、わたしの経験から言って、この種のより深い志向性を欠いていると、エニアグラムを学ぶこと自体が目的化しかねません。言い換えれば、パーソナリティが、自らにとって都合のいいように学んだ情報を使い始めるということです。たとえば自己防衛の日的で、また自分や他人を操作するために、あるいは白己愛を満たすために、そしてパーソナリティ自身が生き残るために”

 

私自身がエニアグラムを今までどう受け止めてきたかと云うと、その本当は一番の核心であるスピリチュアリティの側面をネグレクトし、クラウディオ・ナランホ Claudio Naranjoが実践した

 

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』

46頁 第二章古代のルーツと現代の研究

“特定のタイプないしは精神医学的に分類された人々を集め、インタービューをして、類似点に焦点を合わせたり、さらなる情報を引き出す「パネル」方式です。たとえば彼は、グループの中で強迫神経症的傾向をもつ人々すべてを集め、彼らの反応がどのようにタイプ1の説明に当てはまるかを観察しました”

 

と云った実証的な性格タイプの区分と規定を利用することが中心になっていた。

 

もう少しそのスピリチュアリティの方面も研究してみようかと考える今日この頃である