hyoutau’s blog

エニアグラム/ドン・リチャード・リソ 助言/中嶋真澄 対人関係

自分の性格タイプに迷うとは エニアグラムタイプ4ウイング5である私の考え

ドン・リチャード・リソの『性格タイプの分析発達の諸段階(健全な状態・通常の状態・不健全な状態)、統合の方向・分裂の方向を良く良く考えてみると各々の性格タイプは事実上他の全ての性格タイプでもあると云わざるを得ない。様々な状態を動的に移行し他タイプへ統合し分裂する。全ての性格タイプの人々は全て人であると云う点では共通している要するに皆同じ人間全ての性格タイプなのである。

 

その同じ人間を異なる性格タイプに分ける意義とは何か。それは視点の問題あるいは便宜からの要請である。皆同じ人間であるのは紛れもない真実ではある。しかしそこに留まっていては人間の性格についての理解を進めることが出来ない。

 

これはエニアグラムの理論にあるものではなくて私独自の考えになるが先ず人を最も中心的に関わる領域が「存在」か「人」か「観念」かで分ける。注意して欲しいのは各々が関わるのは結局全て「存在」にでありまた各々自身が「存在」でもあると云うこと、ここでは性格タイプについての認識を進めようと云う目的意識から区分を設けたわけで、究極的には全てが一体同一の存在なのである。試みに自分と自分以外の境界が本当にあるのかと云うことを突き詰めて考えてみていただきたい。例えば爪を切った時その爪は切る前は自分で切った後は自分ではなくなるのであろうか。有名なミリンダ王の問いなども面白い。

 

「存在」タイプ3・タイプ8・タイプ7、「人」タイプ6・タイプ2・タイプ1 、「観念」タイプ9・タイプ5・タイプ4に分ける。後はそれぞれのレイヤー単独に座しているタイプ3・タイプ6・タイプ9と他のレイヤーを二次的に使っているその他に分けて、タイプ3の「存在」そのものの性格タイプからタイプ4の最も展開が進んだ「観念」第一「存在」第二の性格タイプを経て最も根源的な「存在」タイプ3へ戻る螺旋を性格タイプ全体の体系とする。

 

しかしこれはタイプ4ウイング5の私の考えである。それはそれとして一貫してはいるのであるが全ての人々に納得し易いものではないかもしれない。より一般的な述べ方をしてみると、人は結局人であろう、理解できるのは同じ面があるからでそう云う意味では人に区別はない、としても人には特徴があってその特徴は一生一貫している、いわゆるアイデンティティと云うもの、三つ子の魂百までとも云い習わされている、そのそれぞれの人を特徴づける生涯変わることのない癖のようなものに着目すると人を性格タイプで分類できるであろう、と云うことである。その考えに対していや人は変わって行くものであると云うことは勿論できてそれはその通りなのであるがそこに普遍特殊個別と云うコンセプトを導入するとその変わって行くと云うことを同一性として捉えることができるのである。実は個別とは(その他の特殊でも普遍でも同じことであるが)特殊や普遍と組み合わせることなしにそれだけで考えることはできず、例えば普遍特殊個別と云う枠組みで捉えるとあなたと云う個別は存在一般と云う普遍のうちの動物と云う特殊のさらに人間と云う特殊のそのうちの個人個別となるわけである。ある特定の人物の性格タイプを普遍として、若かった時、歳をとってから、調子の良い時悪い時等々に現れる性格を特殊として、変わって行っている今まさに現れている性格を個別とすれば、特徴は一生一貫、アイデンティティ、生涯変わることのない癖のようなもの、と、人は変わっていくものである、と云うことを特定の性格タイプと云う同時に普遍特殊個別でもある同一性で捉えることができるのである。しかしそれでもやはり自分にはこう云う面もああ云う面もあると迷い続けてしまうことには必然性がある、人には人の全ての性質が人である限りあるとも云えるので。

 

(その同時に普遍特殊個別でもあるエニアグラムの性格タイプのコンセプトとは例えば発達の諸段階

それぞれの性格タイプは、さまざまな特性の勝手な集合体ではなく、相互に関連する多くの属性から成る内部構造を持つ動的な統一体〜それぞれのタイプの内部には、非常に多くの内的な一貫性があり、その一貫性は、人間が怖れと欲求、不安、防衛機制などに反応して〈発達の諸段階〉を上下に揺れ動くときに、さまざまな特性が互いに変形し合うことによって生まれる

他にも統合の方向と分裂の方向等もある)

 

性格についてだけ集中的に考えることに妥当性があるのはその道の専門家のみではなかろうか。性格のことだけを考えていても性格は分からないし意味もないのでは。その人が現にある状況に於て性格を問う時にこそ性格タイプを判別する意義も生じようと云うものである。例えば大学に通っていて講義を受けてどうしても入ってこない教授の言葉があるとしてそれは何故か、入ってこないのはそれは駄目なものであるからと片付けず、そこからも意義を見出そうとした時に、その観点や要素が全てではないが、教授と自分の性格タイプを考えてそれらのタイプ間にはどのような問題が発生しがちなのかそしてそれを解決するためにはとなった時にこそ例えば9つの性格タイプ45通りの対人関係 エニアグラム等が役に立つのではなかろうか。

 

性格タイプとは、仮に性格タイプが一つだけならば存在しないのと同じで人の全体に於て性格という面で違いがありその違いが或る限られた数の類型的在り方をしているということ、そしてそれは認識としては或る人達によって構成された或る理論の体系の一項目、存在としては一つの総体の契機なのであって、それ自体が単体で即物的に存在しているわけではなく、よって自分の性格タイプに迷うのは構造的必然性がある、性格はそれ単体で問題にしても分からないし意味がない、性格が気になる人の第一の問題点は、本当は性格そのものにはなく、収入・社会的地位・状況認識の程度等なのでは、性格にではなくその真の問題点にこそ対処すべきでは。

 

しかし付言すると私は他者と自己とを問わず性格タイプの判別に迷うこと〜は必ずしも好ましくないことでもあるまいと思っている。迷うことが出来るのは恐らく比較的余裕がある場合で、とすれば当面は差し迫った問題を突きつけられてはいないのであるから色々と考えてみる好機ではないか。

 

私自身の場合はどうか。自分がエニアグラムタイプ4ウイング5であろうと云うことはごく初期の段階から明瞭に自覚できていた。それは初めてエニアグラムに接したのがもうパーソナリティがかなり固まった歳になってからで、またタイプ4と云う自分を見つめる傾向の性格タイプでその上に客観性のあるウイング5でもあったからかと。エニアグラム性格タイプには関心をもう30年以上も持ち続けてはいるが最も注力しているのは哲学に対してではないかと「観念」、それと時事問題数学自然科学経済学社会学思想宗教芸術音楽文学、疎かになっているのは人間関係実生活、やはり「人」「存在」