hyoutau’s blog

エニアグラム/ドン・リチャード・リソ 助言/中嶋真澄 対人関係

エニアグラムは性格の話ではなくてスピリチュアルな教え

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』

52頁 第三章本質と性格

エニアグラムの中核にある真理は、「私たちは性格をはるかに超えた存在である」ということ”

“私たち一人ひとりは、性格という限界を超え、「本質エッセンス」と呼ばれる、ほとんど認知されていない、大きな広がりの「存在ビイングあるいはプレゼンス(「今、ここ」に在ること)」として生きている”

 

54頁 聖なる心理学

エニアグラムは無味乾燥な心理学でも、曖昧な神秘主義でもなく、成長(変容)トランスフォーメーションのための道具です”

“私たちがどのように本性(true nature)聖なる本質(Divine Essence)を忘れ、自分自身を見捨ててしまうか、その心理的カニズムを基本タイプが明らかにしてくれる”

“私たちは限定された対処方法(strategies)や自己イメージ、行動などを無意識に身につけ ”

 

56頁

エニアグラムの教えのひとつは、「自分は性格そのものではない」と気づくこと”

“私たちは性格というものを「もち」、性格を通じて自らを表現する「スピリチュアルな存在」”

“性格との同一化(一体化)をやめ、それを防衛することをやめれば、奇跡が起きます。本質が自然に表れ、私たちを変容させる”

 

『エニアグラム【実践編】人生を変える9つのタイプ活用法』

12頁 光の存在

“私が見たものは、そこにいるみなが「光の存在」であるというもの”

“自分自身を正直に、なおかつ善し悪しを裁くことなく観察し、性格のメカニズムの働きを見るなら、私たちは目覚めることができ、美と喜びが奇跡的に開花する人生となるでしょう”

 

ja.wikipedia.org

「科学の検証に耐えられてない」「せいぜい疑似科学

(ところで心理学や精神医学は科学であろうか。なぜあれほど複数の説が併立しているのであろうか。それからDSMが改訂されるごとに病気や薬が増えているような)

 

という言は多分的外れであろう。エニアグラムはそもそも性格の科学などではなくてスピリチュアルなトランスフォーメーションのための教えなのである。エニアグラムと云えば性格タイプの話であろうという一般的な理解とは異なり実はエニアグラムに於て性格は「限定された対処方法(strategies)」、人々の本質ではなく「スピリチュアルな存在・光の存在」としての人々が「同一化(一体化)」を止めると良いもの、と云う二義的な位置付けをされている事柄に過ぎないのである。

 

ja.wikipedia.org

にも出てくる斯界のビッグネームであるラス・ハドソンRuss Hudsonの言を引くと

 

web.archive.org

“「エニアグラムは強力な手段だが、それ自体が目的ではない」ということですね。いまドンが話したように、わたし自身の埋解では、エニアグラムはわれわれの目覚めを助けてくれる手段なのです。つまり、われわれがよりいっそう「いまここ」に在り、体験していることや本来の白分を、より深い次元において認識する手助けをしてくれる手段ということです。もちろん、このような志向を持たずにエニアグラムを学ぶ人は大勢いますし、また実際に教えている人も少なくありません。しかし、わたしの経験から言って、この種のより深い志向性を欠いていると、エニアグラムを学ぶこと自体が目的化しかねません。言い換えれば、パーソナリティが、自らにとって都合のいいように学んだ情報を使い始めるということです。たとえば自己防衛の日的で、また自分や他人を操作するために、あるいは白己愛を満たすために、そしてパーソナリティ自身が生き残るために”

 

私自身がエニアグラムを今までどう受け止めてきたかと云うと、その本当は一番の核心であるスピリチュアリティの側面をネグレクトし、クラウディオ・ナランホ Claudio Naranjoが実践した

 

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』

46頁 第二章古代のルーツと現代の研究

“特定のタイプないしは精神医学的に分類された人々を集め、インタービューをして、類似点に焦点を合わせたり、さらなる情報を引き出す「パネル」方式です。たとえば彼は、グループの中で強迫神経症的傾向をもつ人々すべてを集め、彼らの反応がどのようにタイプ1の説明に当てはまるかを観察しました”

 

と云った実証的な性格タイプの区分と規定を利用することが中心になっていた。

 

もう少しそのスピリチュアリティの方面も研究してみようかと考える今日この頃である

エニアグラムタイプ4ウイング5の私の他者の性格タイプ判別法

エニアグラムに初めて触れてから30年以上経つと云うのに一目でその人の性格タイプを当てられる場合は稀である。人を見ると云うことは簡単なことではない。それでも他者の性格タイプの判別法はエニアグラムに行き着いた人々にとって関心の高いテーマであることは間違いないであろう。下に示したやり方は、本やタイプ診断のチェックリスト等の必要がないほどの明瞭さでエニアグラムの各性格タイプはこのような人達であると云うイメージを持っていて各タイプごとに良く知っている人の具体例を多数思い浮かべることもできる状態が前提となってしまい、またエニアグラムを知ってからの期間エニアグラムにどう云った問題意識から取り組んでいるかそして性格タイプ等もこの私とは異なっていたり、そのまま当てはまりはしないとしても、何らかの参考にはなるのではないかと私自身が現状何をどう実践しているのかを述べてみた。

 

基本的にその人の性格タイプが何であると分かると云うよりも何でないかとつまり消去法で絞って行く感じである。自分と同じ性格タイプかどうかこれは割合分かり易い。そこで最初にタイプ4であるか否かを限定できる。それから、これはエニアグラムの説ではなく私が自分で考えたことなのだが、大括りに人間の性格とは等で述べた「存在」「人」「観念」の区分で、この人は明らかに観念第一の人ではないであろう等、またどう考えてもこの性格タイプではないであろうと例えばどこか可愛いらしい感じがするタイプ6The Loyalistを存在感のあるタイプ8The Callengerと混同したりと云うことはまず有り得ないので狭めて行く。そうすると候補を二つ位までにはできるのでさらに細かく検討してこの性格タイプと考えれば色々なことがしっくりくると云うところまで持って行く。大まかにはこのような手順である。「存在」のタイプ3・タイプ8・タイプ7は他の性格タイプよりも消去法を使うまでもなく正にその存在が顕現している傾向はありはするがそれでもウイングの判別はやはり消去法になる場合が多い。

 

またその他に極めて有効な手がかりになるのは自分の身の回りの人でその性格タイプを完全に確定できている人が実際にどうであったかそれと同様なところが今性格タイプを判別しようとしている人にもあるか、もう一つそれと類似した手がかりとして手に入れ易い情報が豊富な有名人の性格タイプを確定させて身の回りの人の場合と同様に判断指標にする。

 

最終的にはその性格タイプを想定した時に問題が解決の方向に向かって行くのかそれとも上手く行かない辻褄が合わない事柄が次々と出てくるのかと云うところである。

 

このように私は性格タイプと云うものを極めてプラグマティックに扱っている。そう云った姿勢はエニアグラムの本来のコンセプトであるスピリチュアリティの重視からは外れているかもしれない。

 

付言すると私は他者と自己とを問わず性格タイプの判別に迷うことにはそれなりの根拠があるとまたそれは必ずしも好ましくないことでもあるまいと思っている。迷うことが出来るのは恐らく比較的余裕がある場合で、とすれば当面は差し迫った問題を突きつけられてはいないのであるから色々と考えてみる好機ではないか。しかし私自身はとにかく物事をはっきりさせよう納得できるようにしようと云う傾向が強いようである。

 

注意)

日本エニアグラム学会春秋社にあった昔に通ったワークショップで安直にあの人はあのタイプだからと分かった気にならないようにと戒められたことを良く覚えている。

 

私たちは、著名人を含めた他者の性格タイプを他人が決めつけることは出来ないと思っています。興味本位で、他者のタイプを話題にすることは、よいこととは思っていません

 

しかしこの様な注意喚起がなされるのは正にそのようなことこそが最も盛んに行われているからでもある。また自認警察など類型界隈の方々にはお馴染みのことかと思う。

 

木村なおき氏のひよこくんとフクロウくんの9つの性格講座

あなたの性格タイプを決めるのはあなた自身〜私たちは寄り添うだけ〜答えはありません〜「わからないなら、わかりません!と言ってよ。そして中途半端なアドバイスならやめろ!」と怒りました

MBTI〜性格タイプを判定してはいけない〜判定できるよう〜サポートするスタイル〜対して、私はサポートではなく、性格タイプ判定コミットしています

と云うアプローチもあったりする。

 

私自身はエニアグラムを主に実証的な性格タイプの区分と規定  ーーー( 私は『性格タイプの分析』の〈第一部新たな発展 第2章九つの性格タイプ〉に一番馴染んでいる、発達の諸段階分裂の方向・統合の方向、幼児期の原点、根源的恐れ、根源的欲求、二次的動機づけ、健全な自己感覚、隠された不満、主要な防衛機制、固有の誘惑、固有の短所、固有の長所、取柄、構造様式、等々がそこに凝縮されており実に優れた性格タイプの規定、『エニアグラム 性格と本質』も評判は良いよう、特に〈第7章9つの性格タイプについての考察〉のコラム )ーーー として重用していて、その全体特に理論面をそのままの形で納得理解できているわけではない

 

そもそも性格というものが何故問題になるのかと云うと人が自分の思った通りではないからである。その自分の思った通りとは要するに自分ならばこうなのにと云うことなのである。そこから他人は自分とは違うまた逆に自分は他人とは違うと云うことが分かってくる。さらにその違い方にパターンがあると、この人はあの時のあの人と似ているとなって行き、またその似方は性別年齢を超えるものであることにも気づく。その様な認識を実際に活かす時にエニアグラムの性格タイプの区分と規定は役に立ったのである。それを意識的に使って行くには性格タイプの確定が必須である。自分と違う人には自分にとって自然なことをしても駄目な場合がありその時にこの性格タイプの人ならばこの様なことに気をつけてみると云った具合に適用するにはその人の性格タイプが何であるかを確定させておくことは前提となってくるのである。

 

私のこのような実践は最早エニアグラムとは云えないかもしれない。人のことを安易に興味本位に決めつけたりしてはいないがそれはそのようなことをしていては上手く行かないからである。

 

エニアグラムの細分化ウイング・トライタイプと単純化と

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』第五章ダイナミズムとヴァリエーション 101頁 ウイングをもたない純粋なタイプというのはありません。両方のウイングをもつ場合もありますが、大半の人は、おもなウィングをひとつもっています

 

『性格のタイプ 自己発見のためのエニアグラム 増補改訂版』第13章上級者のための指針 546頁 ある人が基本タイプに対して高い割合でウイングを持つとすれば、その人は「重い」ウイングを持つと言うことができる。547頁 基本タイプに対して重い、中程度、軽いの割合でウイングを持つことを視野に加えれば、五十四の副次タイプを

 

ということらしい。私自身は自分がタイプ4ウイング5であることについて疑問を持った記憶が余りないのであるが改めて考えてみると何でも調べていつまでも考えるところからこの区分に当てはめれば「重い」ウイングを持っているということになるであろう。このサブタイプ(副次タイプ・下位タイプ)とは例えば同じタイプ4でもその在り方にかなりの幅がありそれを同じタイプとすることが適切なのかという事態への対応かと思われる。そこで九つの基本タイプという線は維持しつつもより細かな区分を設けて行くわけである。しかしそもそも個々の人々は各々がそれぞれ異なる一人一人の人達なのでありまたその個々人も刻一刻変わって行くことを思えばそのような対処方法には限界もあるのではなかろうか。細分化するよりも単純化する方がより有効性が増す場面もでてくるのでは。例えばある人の性格タイプを判別する時 は区分が少ない方が容易であろう。また私にはトライタイプ(「ねぇ。この組み合わせって81通りになるよね?うん、わしも覚えきれん」)などは、もちろん利点も出てくるのではあろうが、とても使いこなせそうにない。そこで私は区分を五十四、81に増やすどころか九つのから三つ「存在」「人」「観念」へ減らしてみた。

エニアグラムに於る発達の諸段階

発達の諸段階ドン・リチャード・リソが1977年に見出したコンセプトで、健全な状態、通常の状態、不健全な状態の三段階の大分類、さらにそこに三段階の刻みがあり、全九段階が設定されている。


エニアグラムの九つの性格タイプは同列な水平的な分類であり、この発達の諸段階はそれぞれの性格タイプの持前がより良く発揮されているか弱点が顕在化してしまっているかと云う垂直的規定を与えている。

www.enneagram.ne.jp

 

ひよこくんとフクロウくんの9つの性格講座木村なおき氏の解説

エニアグラムの健全度とは?健全-通常-不健全を9つに分けて紹介 | 性格タイプ

 

 

●付記 特性論・類型論と発達の諸段階 科学・知恵 20240327水)

エニアグラムはタイプ論、類型論である。現在主流になっていてマーケティングや選挙(有名なケンブリッジ・アナリティカ事件でも)などで使われているビッグファイブは特性論である。

 

一般に心理学者の間では、類型論は科学的でないという批判が
“特性論は相対評価で比較し、類型論は絶対評価でカテゴリーに分類します”
“特性論 後天的に身に着けたパーソナリティに主眼が”
“類型論 先天的なキャラクターに主眼が”


エニアグラムの本質( 枠組みとしては類型論なのであるが区分はされながらもそれがスタティックなものではなくダイナミックなものとなっていてそれぞれの性格タイプの在り方の総体をレベルの推移として詳細に捉えている発達の諸段階

 

発達の諸段階は人の同一性と区別を捉える時の一つの極めて有効な方法であろう。特性論では人の同一性はその人の成長病気衰退や時々の状況等に規定されて発現する無数の特性の区別の裡に消えてしまうように思われるが


それぞれの性格タイプは、さまざまな特性の勝手な集合体ではなく、相互に関連する多くの属性から成る内部構造を持つ動的な統一体〜それぞれのタイプの内部には、非常に多くの内的な一貫性があり、その一貫性は、人間が怖れと欲求、不安、防衛機制などに反応して〈発達の諸段階〉を上下に揺れ動くときに、さまざまな特性が互いに変形し合うことによって生まれる

 

エニアグラムに於る性格タイプの場合のそれは(それは一つのタイプつまり)同一性かつ区別(発達の諸段階・さまざまな特性、多くの属性)なのであって同一性の維持が実現しているのであるから。

 

エニアグラムに関しての類型論特性論問題は、ビッグファイブは人を操作する手段科学としての有用性を持っており、エニアグラムは人々が成長する時の自己理解のための知恵を標榜しており、目指すところが異なっているわけで、それは初めから同列には扱えなかったのではないかと云うことであろう。

 

エニアグラム〜「科学の検証に耐えられてない」「せいぜい疑似科学」〜という言は多分的外れであろう。エニアグラムはそもそも性格の科学などではなくてスピリチュアルなトランスフォーメーションのための教えなのである。エニアグラムと云えば性格タイプの話であろうという一般的な理解とは異なり実はエニアグラムに於て性格は「限定された対処方法(strategies)」、人々の本質ではなく「スピリチュアルな存在・光の存在」としての人々が「同一化(一体化)」を止めると良いもの、と云う二義的な位置付けをされている事柄に過ぎない〜

 

科学云々に関してはバーナム効果を挙げてエニアグラムが性格タイプを9つに分けることは占い同然の根拠のないものではないかとの感想を表明する人々が絶えないようであるが

 

『性格のタイプ増補改訂版』
〈第一部 第3章エニアグラムを理解するための指針〉

62頁“究極のところ、目標は、エニアグラムの図のまわりを完全に回り切って、各タイプが象徴するものを統合し、かつ「すべてのタイプ」が持つ健全な潜在能力を積極的に生かし切ることである〜したがって、どの性格タイプとして人生を始めるかということは〜重要ではない。意味を持つのは、自分のタイプをどう扱うか〜もっと完全で統合された人間に成長するために、それをいかにうまく〜出発点として用いるか”

 

と「完全で統合された人間」には特定の性格はないと云う意味のことさえ公言しているのであるから性格タイプで分ける時の適正性バーナム効果云々はもはや関係がなくなっているわけでそのような考えは対象そのものを見ず自己の一面的な枠組みで加工したその実体は自分の影でしかない相手と一人相撲をしていると云うことになっているのではあるまいか。

 

念の為に付け加えておくと、私自身はエニアグラムを主に実証的な性格タイプの区分と規定〜として重用していて、その全体特に理論面をそのままの形で納得理解できているわけではない。それでも私はエニアグラムの9つの性格タイプと云う説を通して人は皆が自分とは同じではない理解し合うことは本当に難しいと云うことは意識するようにはなりその実例がここにもあるとまた実感しているところである。

 

自分の性格タイプに迷うとは エニアグラムタイプ4ウイング5である私の考え

ドン・リチャード・リソの『性格タイプの分析発達の諸段階(健全な状態・通常の状態・不健全な状態)、統合の方向・分裂の方向を良く良く考えてみると各々の性格タイプは事実上他の全ての性格タイプでもあると云わざるを得ない。様々な状態を動的に移行し他タイプへ統合し分裂する。全ての性格タイプの人々は全て人であると云う点では共通している要するに皆同じ人間全ての性格タイプなのである。

 

その同じ人間を異なる性格タイプに分ける意義とは何か。それは視点の問題あるいは便宜からの要請である。皆同じ人間であるのは紛れもない真実ではある。しかしそこに留まっていては人間の性格についての理解を進めることが出来ない。

 

これはエニアグラムの理論にあるものではなくて私独自の考えになるが先ず人を最も中心的に関わる領域が「存在」か「人」か「観念」かで分ける。注意して欲しいのは各々が関わるのは結局全て「存在」にでありまた各々自身が「存在」でもあると云うこと、ここでは性格タイプについての認識を進めようと云う目的意識から区分を設けたわけで、究極的には全てが一体同一の存在なのである。試みに自分と自分以外の境界が本当にあるのかと云うことを突き詰めて考えてみていただきたい。例えば爪を切った時その爪は切る前は自分で切った後は自分ではなくなるのであろうか。有名なミリンダ王の問いなども面白い。

 

「存在」タイプ3・タイプ8・タイプ7、「人」タイプ6・タイプ2・タイプ1 、「観念」タイプ9・タイプ5・タイプ4に分ける。後はそれぞれのレイヤー単独に座しているタイプ3・タイプ6・タイプ9と他のレイヤーを二次的に使っているその他に分けて、タイプ3の「存在」そのものの性格タイプからタイプ4の最も展開が進んだ「観念」第一「存在」第二の性格タイプを経て最も根源的な「存在」タイプ3へ戻る螺旋を性格タイプ全体の体系とする。

 

しかしこれはタイプ4ウイング5の私の考えである。それはそれとして一貫してはいるのであるが全ての人々に納得し易いものではないかもしれない。より一般的な述べ方をしてみると、人は結局人であろう、理解できるのは同じ面があるからでそう云う意味では人に区別はない、としても人には特徴があってその特徴は一生一貫している、いわゆるアイデンティティと云うもの、三つ子の魂百までとも云い習わされている、そのそれぞれの人を特徴づける生涯変わることのない癖のようなものに着目すると人を性格タイプで分類できるであろう、と云うことである。その考えに対していや人は変わって行くものであると云うことは勿論できてそれはその通りなのであるがそこに普遍特殊個別と云うコンセプトを導入するとその変わって行くと云うことを同一性として捉えることができるのである。実は個別とは(その他の特殊でも普遍でも同じことであるが)特殊や普遍と組み合わせることなしにそれだけで考えることはできず、例えば普遍特殊個別と云う枠組みで捉えるとあなたと云う個別は存在一般と云う普遍のうちの動物と云う特殊のさらに人間と云う特殊のそのうちの個人個別となるわけである。ある特定の人物の性格タイプを普遍として、若かった時、歳をとってから、調子の良い時悪い時等々に現れる性格を特殊として、変わって行っている今まさに現れている性格を個別とすれば、特徴は一生一貫、アイデンティティ、生涯変わることのない癖のようなもの、と、人は変わっていくものである、と云うことを特定の性格タイプと云う同時に普遍特殊個別でもある同一性で捉えることができるのである。しかしそれでもやはり自分にはこう云う面もああ云う面もあると迷い続けてしまうことには必然性がある、人には人の全ての性質が人である限りあるとも云えるので。

 

(その同時に普遍特殊個別でもあるエニアグラムの性格タイプのコンセプトとは例えば発達の諸段階

それぞれの性格タイプは、さまざまな特性の勝手な集合体ではなく、相互に関連する多くの属性から成る内部構造を持つ動的な統一体〜それぞれのタイプの内部には、非常に多くの内的な一貫性があり、その一貫性は、人間が怖れと欲求、不安、防衛機制などに反応して〈発達の諸段階〉を上下に揺れ動くときに、さまざまな特性が互いに変形し合うことによって生まれる

他にも統合の方向と分裂の方向等もある)

 

性格についてだけ集中的に考えることに妥当性があるのはその道の専門家のみではなかろうか。性格のことだけを考えていても性格は分からないし意味もないのでは。その人が現にある状況に於て性格を問う時にこそ性格タイプを判別する意義も生じようと云うものである。例えば大学に通っていて講義を受けてどうしても入ってこない教授の言葉があるとしてそれは何故か、入ってこないのはそれは駄目なものであるからと片付けず、そこからも意義を見出そうとした時に、その観点や要素が全てではないが、教授と自分の性格タイプを考えてそれらのタイプ間にはどのような問題が発生しがちなのかそしてそれを解決するためにはとなった時にこそ例えば9つの性格タイプ45通りの対人関係 エニアグラム等が役に立つのではなかろうか。

 

性格タイプとは、仮に性格タイプが一つだけならば存在しないのと同じで人の全体に於て性格という面で違いがありその違いが或る限られた数の類型的在り方をしているということ、そしてそれは認識としては或る人達によって構成された或る理論の体系の一項目、存在としては一つの総体の契機なのであって、それ自体が単体で即物的に存在しているわけではなく、よって自分の性格タイプに迷うのは構造的必然性がある、性格はそれ単体で問題にしても分からないし意味がない、性格が気になる人の第一の問題点は、本当は性格そのものにはなく、収入・社会的地位・状況認識の程度等なのでは、性格にではなくその真の問題点にこそ対処すべきでは。

 

しかし付言すると私は他者と自己とを問わず性格タイプの判別に迷うこと〜は必ずしも好ましくないことでもあるまいと思っている。迷うことが出来るのは恐らく比較的余裕がある場合で、とすれば当面は差し迫った問題を突きつけられてはいないのであるから色々と考えてみる好機ではないか。

 

私自身の場合はどうか。自分がエニアグラムタイプ4ウイング5であろうと云うことはごく初期の段階から明瞭に自覚できていた。それは初めてエニアグラムに接したのがもうパーソナリティがかなり固まった歳になってからで、またタイプ4と云う自分を見つめる傾向の性格タイプでその上に客観性のあるウイング5でもあったからかと。エニアグラム性格タイプには関心をもう30年以上も持ち続けてはいるが最も注力しているのは哲学に対してではないかと「観念」、それと時事問題数学自然科学経済学社会学思想宗教芸術音楽文学、疎かになっているのは人間関係実生活、やはり「人」「存在」

エニアグラムタイプ4本人の思いと他タイプがイメージしがちなこと

エニアグラムタイプ4といえば個性や芸術と関係づけられる。しかしそれらの事柄と彼の人達の関係は単純なものではない。彼の人達は他の人達が普通で羨ましいと、自分が理解されない周囲と馴染めないことを不幸と、思っている。そして太宰治の「生まれて、すみません」というあの感覚。つまり個性は結果であってそれを目指しているわけではなくて、また芸術家になったとしてもそれを素直には誇れず自分にはそれしか出来なかったからという認識である。他のタイプの人達は個性や芸術ということをそこまで屈折せずに普通にとらえて、自分は目立つのが好きだから4かもとか、芸術は格好いいとの位置づけで4かもなどと、自分の性格タイプを4と思ったりするが、彼の人達(因みに私も4)自身はそうは思っていないのである。例えば庵野秀明さんにもそういったタイプ4らしさが明らかに見てとれる、

20210322月 プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャ

www.nhk.jp

声優たちが明かす庵野秀明
緒方恵美「謎の人なんです本当に謎ですきっと庵野さんのことを本当に分かっている人ってどのくらいいらっしゃるんですかね」

なんで今回ドキュメンタリーを受けようと思われたんですか
「商売しようと思って」

アニメで凄い名を成したみたいなことで自負みたいのはないんですか
「ないよ。胸を張れるような商売じゃないよ」
そうですか、でもいろんな人の人生変えてるじゃないですか
「申し訳ないとも言える。その人にとっての良かれのこともあるかもしれないけど逆の可能性もあるわけじゃないですか」

生まれ故郷 宇部新川駅プラットフォームのベンチに座る庵野秀明
いつも何かが、欠けていた

作品に命かけれるっておっしゃられてたんですけどそれって何でなんですか
「いや、他にやれることがないから」
何でそこまでされるんですか
「僕が最大限人の中で役に立てるのがそこぐらいしかない」
「世間にはそれぐらいしか役に立たない」

プロフェッショナルとは?
「考えたことがない。余り関係ないんじゃないですか、プロフェッショナルって言葉は。そもそもこの番組その言葉がついてるの僕嫌いなんですよ。他のタイトルにして欲しかったです」

他者の立場からは謎と「本当に分かっている人って」となりそして本人の4の視点では理解されないとなり、欠けているという感覚があり、芸術を創作しているのは他にやれることがないからであり、自分をプロフェッショナルとは思っていない、とこのように。

統合は難しいがそのままでも強い根源的性格タイプ

エニアグラムの性格タイプのタイプ3「存在」・タイプ6「人」・タイプ9「観念」は、他の性格タイプが補助的に他の側面も組み合わせて使っているのに比して一側面に集中していて、他の性格タイプは譬れば最初から二本足で立っていて統合の方向に向かえば三本足になるのだが、統合の第一段階で初めて他の性格タイプが最初からそうである二本足になり、もう一段階進んでやっと三本足になる人達である。しかし「存在」「人」「観念」の原型で展開していない単純と云うことで頑丈、統合しなくてもそのままで強い人達でもある。タイプ3・タイプ6・タイプ9は「存在」「人」「 観念」 「存在」という螺旋の要の性格タイプである。

統合の方向 分裂の方向

分業する事により全体としては生産性が向上するのだがそれを担う個々人は一面的になってしまうわけで個人としては問題を抱える事になるともいえる

そこで全体の部分としてではなく総体の契機としての個人

つまりそれ自体でも総体であるようなより完成した個人として体系の主体的契機になるという発展の道が目指される事になる

それがエニアグラムに於る統合の方向だろう

www.enneagram.ne.jp

 

 

それぞれが「存在」「人」「観念」的である性格タイプが

その一面性を克服し

 

3→6→9→3

「存在」のタイプ3は「人」のタイプ6をへて「観念」のタイプ9へ

693→6

936→9

 

8→2→4→1→7→5→8

タイプ8「存在」第一「観念」第二は欠けている「人」タイプ2へ

7→5→8→2→4→17

タイプ7「存在」第一「人」第二は「観念」タイプ5へ

2→4→17→5→8→2

タイプ2「人」第一「存在」第二は「観念」タイプ4へ

17→5→8→2→4→1

タイプ1「人」第一「観念」第二は「存在」タイプ7へ

5→8→2→4→17→5

タイプ5「観念」第一「人」第二は「存在」タイプ8へ

4→17→5→8→2→4

タイプ4「観念」第一「存在」第二は「人」タイプ1へ

 

分裂の方向は足りない契機を補うのではなく

既にある契機により偏って行く、一例を挙げれば

85

タイプ8「存在」第一「観念」第二は

タイプ5の「観念」第一と重複し過剰になり

「人」的な側面は弱いままと云う事で

 

また根源的性格タイプ369の場合には起源からの発展の方向に沿わず

逆行してしまうという事だろう

 

 

付記)

Direction of Disintegration

Direction of Integration

Don Richard Riso and Russ Hudson『Understanding the Enneagram』

 

分裂の方向

統合の方向

ドン・リチャード・リソ『性格タイプの分析』

 

 

Reacting to Stress(ストレスに反応する)

The Path of Integration(統合の道)

Don Richard Riso and Russ Hudson『The Wisdom of The Enneagram』

 

『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』

13頁

「統合と分裂の方向」は現在、「成長とストレスの方向」と呼ばれていることについても、

 

ということらしい。私には『性格タイプの分析』が最も合っていてその他の本は補助的に読んでいるので余り意識していなかったが。そしてまだまだ分裂の方向と統合の方向が広く通用している。一旦定着した基礎的用語を改称するのは容易ではない。また『新版 エニアグラム【基礎編】 自分を知る9つのタイプ』は一冊の『The Wisdom of The Enneagram』が分厚くなり過ぎるという出版上の理由でもう一冊の『エニアグラム【実践編】人生を変える9つのタイプ活用法』とに分かれていてその都合から再構成されていて原文に当たることが直ぐには出来ない。そのようなこともあって余り読み込んでいないのだがそれでも、46頁の第二章古代のルーツと現代の研究の章の中でクラウディオ・ナランホ Claudio Naranjo が「特定のタイプないしは精神医学的に分類された人々を集め、インタービューをして、類似点に焦点を合わせたり、さらなる情報を引き出す「パネル」方式です。たとえば彼は、グループの中で強迫神経症的傾向をもつ人々すべてを集め、彼らの反応がどのようにタイプ1の説明に当てはまるかを観察しました」という方法を採用していたことを教えてくれたり(どうりでそれぞれの性格タイプの規定が真に迫っているわけである)第三章本質と性格の章でエニアグラムに於ては性格は実は第一義的なものとはされておらずスピリチュアルな存在である人間がtransformしEssential nature(最も核心的な持ち前の本性)が自ずから発現するといったことが強調されていてエニアグラムニューエイジ時代精神の一現象であることが良く分かったりと興味深い本ではある。

 

 

人間の性格とは

存在として人は観念を抱き

存在的・人的・観念的役割を人々は分業して受持ち

人類全体として一つの体系的存在である

 

その体系をエニアグラムの各々の性格タイプがどう担っているか

存在的人(タイプ3、タイプ8、タイプ7)

人的人(タイプ6、タイプ2、タイプ1)

観念的人(タイプ9、タイプ5、タイプ4)

と人は大きく3種に分けることができ

タイプ3、タイプ6、タイプ9が「存在」「人」「観念」のそれぞれの原型

 

先ず第一に

タイプ3「存在」的人として最も根源的でシンプルゆえに最も強い性格タイプであり

タイプ8「存在」が第一でそれを起点にして「観念」をその手段として第二に使う

タイプ7「存在」第一「人」第二で次のレイヤーに受け渡し

 

タイプ6「人」の原型を経て

タイプ2「人」第一「存在」第二 

タイプ1「人」第一「観念」第二で

 

タイプ9「観念」のレイヤーの原型を経て

タイプ5「観念」第一「人」第二

タイプ4「観念」第一「存在」第二で一周して

タイプ3「存在」に戻るという螺旋構造を考えることができる

 

3「存在」

8「存在」「観念」

7「存在」「人」

 

6    「人」

2「存在」「人」

1    「人」「観念」

 

9       「観念」

5    「人」「観念」

4「存在」   「観念」

3「存在」

 

このように私はエニアグラムをそのままの形で理解しているわけではなくて存在全体の体系を考えそのモデルを媒介にして受容しているのである

 

 

補遺 20240309(土)
精神分析学やエニアグラムに於て私の「存在」「人」「観念」の区分がどう位置づけられているか

 

Karen Horney カレン・ホーナイ
16 September 1885 – 4 December 1952 aged 67

German psychoanalyst ドイツ人精神分析学者


coping strategies 対処戦略
Moving Against People (Aggression)
Moving Toward People (Compliance)
Moving Away from People (Withdrawal)

 

Social Style The Hornevian Groups 社会的スタイル ホーナイによる分類
Against 自己主張的 自己主張型 主張型 387
Toward 協調的 従順型 621
Away 遊離的 遊離型 後退型 954

 

参照)
ドン・リチャード・リソ『新版 エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』92頁
〈第二部エニアグラムの基礎構造〉
〈第四章三つの要素〉
〈社会的スタイルによる三分類〉


エニアグラムについて 日本エニアグラム学会
〈「社会的スタイル」の三つ組み〉

 

中嶋真澄『エニアグラム 性格と本質』60頁
〈第3章自分のタイプを見つける 誰もが把握しやすい性格の違いについて〉
〈対人態度から見た性格の違い〉

 

性格タイプのこの三様は人の性格を意識し始めた時に多分誰でも気付くであろう極めて見え易い事柄でこの様な現象が現にあると云うことはまず間違いない。私とホーナイやリソとの違いはそれをどう位置付けるかで私は一元論的有機体論的に総体の分化・人類全体の分業と捉えた訳である。

 

「主張」「協調」「遊離」は現象であってそれらが何であるのか何故そうなるのかに答えていない。存在に直接働きかける経済学的方法、人々がどうしたら良いのかと云う社会的方法、観念に於てシミュレーションを行う理論的方法という三様のアプローチを人々は実践していて勿論それらは実は一体で例えば存在的経済的物理的対処が人々の在り方や観念と何の関係もないなどと云うことは有り得ずそれは人々が「存在」「人」「観念」のどの面に第一に注力する傾向があるかと云うことなのである。

 

タイプ4ウイング5である私からすると私は「遊離」や「後退」をしているのではなくて一生懸命調べたり考えたりしているのである。その時に総体を捉えようとする。観念の中に全てが再現されてそれが調和の取れた完成体になれば「存在」や「人」に働きかけることも出来ようまた何よりもその「観念」を表明してみようとなる。それまでが「遊離」や「後退」と云う風に現象しているだけのことなのである。

 

エニアグラム・性格類型・性格・人間とは 関係のツイート

 

性格分析バー関係のツイート

 

 

タイプ8(挑戦する人)対タイプ9(平和を好む人)の付き合い方

せっかちな8と、のんびりとした9。しかし割合相性は良い

 

職場で

8上司は9部下に自分から行動を起こさせるような工夫がいるだろう。プレッシャーをかけるのは禁物で逆にリラックスした状態の方が9は活発になる。9上司は8部下に任せておいて問題はない

 

友人として

快適さを好む二人は楽しく食事を共にしたり仲が良いだろう

 

パートナーの場合

8は9の何でも受け入れ落ち着いているところを好ましく思う。9は8の実行力に助けられる。弱いのは社会性や人間関係の機微。子供ができるならばまず621あたりの可能性が高い


ヒント

8は9が動かなくなったのは自分が強引過ぎたのではと反省するように。9はそうされると抵抗してかえって動かなくなるので。9は8にはハッキリと言わなければ伝わらないと理解する必要がある。状態の良い9ならばそう出来るだろう

時事問題のツイートまとめ

20220718 #櫻井春彦 #櫻井ジャーナルhttps://t.co/J09pk1qAAU#安倍晋三 #殺害#公式見解 に対する疑問が世界規模で語られている

撃たれた時の様子も不自然。銃弾による傷が背中になく、前方の高い位置から撃たれたように見えると指摘する人も

— hyoutau (@hyoutau) 2022年7月17日